第602回 神戸お話伺いメモ 2014/6/28 [2014年神戸お話伺いメモ]

前回の訪問は新人1名を含めて参加者6名でした

・53才、男性。東灘区で被災。文化住宅が全壊。4月にポーアイの仮設に入居。その後、ここに入居16年。最初留守だったが、帰ってきたとのことだったが、快く応じてくださった。「2階建ての文化で、両方に出口があって皆無事だった。向かいのアパートは横倒しになり、お年寄りが三人亡くなった」と話してくださった。近くから火が出て、火事場泥棒が多かったそうです。今は一人暮らし。食事は自分で作られている。昔、パン職人だった。中学を出て、職業は自衛隊、パン屋、洋菓子店などいろいろと経験されている。重たい荷物を持ちすぎて背骨が圧迫骨折し、腰痛があり好きな釣りも出来なくなった、とおっしゃっていた。玄関には釣りの道具が並んでいた。仮設の時にはよく釣りに行っていたそうだ。以前、育児障害者のボランティアもされ、ボランティア登録もされている。趣味は、テレビを見ることと釣り。元気そうに見えたが、糖尿や睡眠時無呼吸症候群、喘息など。白内障で手術もされている。父は14年前に91歳で亡くなり、弟は14年前に交通事故で亡くなった。犯人は捕まったが、ひき逃げを自殺に間違われたそうだ。
 訪問者の感想「話すのが楽しそうだった」「人は淋しいとよく話してくださいます」

・40代女性。留守シートを入れようとした時に、買い物から帰ってこられ、買い物袋を持ったまま廊下で話を聞いた。長田区と伊丹で被災、全壊。県外にいたのでなかなか当たらず、ここに入居して2年。主人は身体障害者4級。6年生の子供。駐車場が高い(月に2万円)何とかして欲しい、と嘆いていらした。障害者だからといろんな部署に訴えても管轄が違うと受け付けてもらえなかった。設置者の県、市、URで家賃が違う。今では、震災と無関係の家賃になっている。住民の声が届きにくい。訪問者の感想「正確に記録する難しさを痛感」「気さくなお話になった」

・60代女性。西宮で全壊。大阪に引っ越していたのでなかなか当たらず、6年前にやっとここに入居。足を少し痛めただけで、元気にしていますといわれた。訪問者の感想「声だけは40代でした」

・80代女性。初めはインタホン越しだったが、後で出てきてくださった。中央区被災。今も診療所に行っている。食が細くなったと言われた。離聴なので、側で話をしてもらうと分かる。お元気な様子だった。

・男性。「今、急ぎの仕事をしていて手が離せない、ご苦労様」と言ってくださいました。

・50代女性。灘区で被災。全壊。地震では怪我はなかった。入居16年。親子三人で住んでいる。仮設に入らず、2人の子供と共に実家にいました、主人は一人で住み、今では子供も1人は社会人です、とお話された。お元気な様子です。

・70代女性。長田区で被災。全壊。神社の近くで被災。中学に5ヶ月ほど避難していた。その後、加古川の仮設に2年、垂水に13年、ここへは最近入居した。九州へ嫁に行く。建築の金物の卸を25年ほどするが倒産した。小学5年の時に終戦。10歳であめの製造の手伝いをする。13歳から靴工場の貼工(はりこ)として働く。近頃はストレスがたまり、耳が遠くなるとおっしゃっていた。難聴気味であった。

・70代男性。中央区で被災全壊。入居15年。25分の訪問。5ヶ月間暮す。震災後、3日間だけ小学校に避難する。その後、ポーアイの仮設で暮らす。

初参加者の感想「訪問の成果はやや満足。留守宅(返事なし)が多かった。訪問を歓迎なさる人もあるようだ。体力、気力、対話力の必要を痛感しました」 

以上

第601回 神戸お話伺いメモ 2014/6/14 [2014年神戸お話伺いメモ]

前回の訪問は参加者9名でした

・80代女性。須磨区で被災。全壊。震災後、阪神沿線、東灘区、そしてここに12年前に入居。「よく通る声ですね」と尋ねると、詩吟の師匠とか。今もお友達が来ていて、教えていると言われた。一人暮らし。ヘルパーさんが来てくれている。娘さんもよく来てくれ、いろんな方が来てくれるのでお元気な様子だった。声を出すのはいいですね、と声を掛けると、「好きだから」と答えられた。足腰が弱っているが、気持ちだけは元気にされている様子だった。話の中で「いいお婿さん探してくれない。茶飲み友達を・・・・」と言われたのが印象的だった。「まだ1年、2年は生きてみたいな。その間によい人を探したいね」と元気なご様子でした。

・30代女性。明石で被災。本人も親戚も被害なし。10年前に入居。子供四人とご主人の6人暮らし。5歳の次女が一緒に出てきた。揺れた瞬間は寝ていたとのこと。幸せに暮している様子だった。

・25歳男性。加古川で被災。本人は被害なし。被災された時のことを教えて欲しいと訪意を告げると、「よいですよ」と気さくに返事され、話してくれた。地震の時は加古川で5歳だった。当時のことはよく覚えており、崩れそうになったタンスを母が支えている場面で自分が起きたこと、祖母から聞いたことなどを話してくれた。母方の祖父母が長田区に住んでおり、三階建て9戸の集合住宅で一階部分が半分つぶれ、その部屋の人は遺体の確認もできないくらいだったそうだ。祖母は当時、花屋をしており、花の仕入れの帰りに地震があり、目の前の高速道路が崩れ、家も店も近くのだ菓子屋さんも崩れたことを覚えているそうだ。祖母から聞いて今でもはっきりと覚えている。祖母の友達の息子さん(当時27、8歳)はトラックの運転手をしており、トラックごと高速道路につぶされ、遺体は寄合所に届いた。東日本大震災について何か思うことはないかと問いかけると、「自分自身でやれることはあまりないと思う。県や市がもっと何かできるのではないかと思う」「自然現象でどうしようもない」と答えられた。
 訪問者の感想「若い男性だが、率直で聞いたことによく答えてくださり好感が持てた」「震災後5年や10年ではここまで話が出来なかったのではないか。震災20年目にして初めて話ができた内容だと思います。多分、おばあちゃんから聞いたことですが、よくここまで鮮明に覚えているかと驚いた」

・70代男性。中央区のマンションで被災。全壊。部屋に全員があがりこんで、30分ほどのお話伺い。東灘区の仮設に2、3年いて、その後ここに入居。奥さんは20数年前に亡くなる。息子さんがポートアイランドのマンション、娘さんが姫路に住んでいる。一人暮らしだが、よく来てくれるので淋しくない。2歳の時から左足が小児麻痺で足がご不自由。今でもギブスをされている。紳士服の仕立てをしていた。中学を出て丁稚奉公、ずっとこの道一筋でやってきた。神戸で生まれ育った。血圧が高いので薬を飲んでいる。食事が一番大変。たまに弁当だが、自分でも作り、買い物は週に2、3回、原付バイクで行く。住宅での付き合いはエレベータ等で会った時に挨拶程度。趣味は映画で、金曜ロードショウが好き。ビデオの鑑賞も。100万円ほど投資した。
 訪問者の感想「上がらせていただき、生き生きとした表情でお話を聞けました」「きちんと生活されている様子で、室内も整頓されていた。穏やかに話をされていた」

・70代男性。ドアを開けて断られる。安否のみ。
・インターホン越しに「忙しいので」と断られる。
・女性。「取り込み中なので」と断られる。

・70代男性。中央区で被災。全壊。自転車で帰ってこられたところ。小学校で避難生活、ポーアイ仮設、そして15年前に入居。なかなか当たらず、通常の入居から少し遅れて7月に入居。近くの病院に通院。自転車で買い物に行き、自分で食事の用意もしている。はきはきした元気な方だった。

・70代男性。ドアが開いたが、寝ていたと言われ、すぐに閉まった。

・70代男性。ドアが開き、支援シートを渡されたが話もできた。支援シートには16日の署名「神戸で被災。(被災状況は)特に医療費が月に1万5千円かかる。健康状態が心配、頭のフラツキ気分が悪く、腰痛み強い。両肘のシビレ強く両肩の痛み強い」。兵庫区で被災。半壊。元気だと言われたが、昨日も医者に行っていたと言われた。腰痛、両肩の痛、シビレ等。一人暮らし。若いころから浜で仕事をしていた。震災後は、岸壁の瓦礫の撤去の仕事をした。その後、神戸の浜で仕事がなくなり、大阪へ仕事に行く。自分で買い物。支援は何もいらない、と語ってくれた。

・50代男性。入居14年。15分の訪問。永住権を得て、子供一人、奥さんと三人暮らし。震災の年に日本に来て、4月から大阪大学に入学。専攻は経済学。今は大阪の携帯電話の会社に就職。震災の時いろんな人に助けてもらい、自分も人の支えになりたいと思っている。子供にもそう言っている。東北の震災があった時、自分も義捐金を送った。訪問者の感想「自分の価値観できちっと生活されておられると感じた」

・50代女性。中央区で被災。大きな建物の裏の団地だったが、中はぐちゃぐちゃ。会社関係の家に入居。5年前に入居。土日の午後11時ころに暴走族がうるさい。生活はとても不便。足が悪く、脳に障害があり、発作があるので電動車いすを使用されている。 訪問者の感想「外で話をしたが、しっかりされている様子が見られ、気持ちが張っているように見受けられた」

以上

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